東高円寺 小満津

小満津の歴史

京橋 小満津

現店主「前田治雄」の祖父にあたる「前田得徳」は、小満津の2代目店主になります。その頃、小満津は京橋にあり、名人と謳われた2代目店主の技に、多くの食通や文化人が魅了されました。「京橋小満津」のファンの1人、小説家・随筆家の小島政二郎は著書「食いしん坊」の中で京橋小満津を「天下無敵」と称賛しています。

2代目は天然物しか扱わず、良いうなぎが入らない日は店を開けないような職人肌の人でした。他の人では持てない位まで柔らかくうなぎを蒸し、一点の焦げも無く飴色に焼き上げていく、一流の技術を持っていました。

その「京橋小満津」は、日本が輝き始めた1964年東京オリンピックの年に惜しまれつつ閉店します。店主の高齢と後継者が居ない事、そして上質の天然うなぎが手に入らなくなった事が最大の理由でした。その頃3代目店主は中学生。祖父が垣間見せる名人としての後ろ姿に、憧れと尊敬と僅かな凄みも感じていました。大学卒業後、就職活動を始めた「前田治雄」には、腕一本で生きていた「前田得徳」に近づきたい気持ちがつのっていきました。

文学の中の京橋小満津

京橋小満津は「うなぎの名店」として、明治・大正・昭和の文学作品や芸能にたびたび取り上げられました。昭和期には、「小満津ブーム」と言えるような大流行があり、一世を風靡しました。
当時は高座や歌舞伎座への出前も多く、歌舞伎座へ出入りするための半纏が店に掛かっていました。

「鰻の幇間」 古典落語・作者不詳 明治中期成立
「味覚極楽」 1927年(昭和2年)梅谷松太郎(=子母澤寛)
「魯山人の食卓 鰻の話」 1935年(昭和10年) 北大路魯山人
「細雪」 1936年(昭和11年)-1941年(昭和16年) 谷崎潤一郎
「食いしん坊」 1954年(昭和29年) 小島政二郎

などに小満津についての記載があります。
とりわけ、「食いしん坊」には数頁を割いて戦前・戦後の小満津について、鮮やか且つ仔細に記載されています。文士や役者などの粋人に好まれる鯔背な佇まいと「語りたくなる味」を提供していたことが伺えます。

一番左が前田得徳 中央は小説家の里見弴
戦後の京橋小満津

東高円寺 小満津

再び「小満津」の暖簾が掲げられたのは1979年12月、場所は東高円寺に移りました。店主30才の冬です。あれから39年、東京で再びオリンピックが開かれようとしています。「東高円寺小満津」には、4代目が現れました。現店主の次男坊「前田孝介」27才です。3代目と同じように大学卒業後修行に入りました。

お陰様で、「東高円寺小満津」にも美食家でうなぎを大好きなお客様がたくさんみえます。
「小満津」の美味しい歴史は続きます。皆様に4代目を支えて頂ければ、この上ない幸せです。